最近、ワイン界隈のSNSで少しざわついている話題があります。
日本ソムリエ協会の名誉会長である田崎真也さんが、セミナーの場で、
このような趣旨の発言があったとされ、瞬く間に自然派ワインをめぐる議論が広がりました。
ワインとは何か。どこまでがワインで、どこからがそうではないのか。これを機会に、改めて考えさせられました。
これまでの12年間、この仕事をしてきて、2回だけ「飲んでもらえなかった」と記憶に残っている出来事があります。
営業で酒販店に試飲ワインをお持ちした際、「濁っているから」という理由で、口をつけてもらえませんでした。 いずれも、ワインにしっかりとした基準を持っている方でした。
もちろん、その感覚も理解できます。 「ワインは透明である」という前提があれば、濁りはノイズになります。
ただ、まだ味わっていないものを、見た目だけで判断してしまうのは、少しもったいないとも感じました。
ただ一方で、自然派ワインと呼ばれるものの中には、「これはどうなんだろう」と感じるものがあるのも事実です。
造りが粗かったり、意図なのか欠陥なのかわかりにくいもの。 特に日本では、その境界が曖昧な印象があります。 これはあくまで、個人的な実感です。
そしてそれを「個性」として受け入れる人もいれば、「違和感」として感じる人もいる。 ここにもまた、大きなズレがあります。
今回の発言も、自然派そのものを否定しているというよりは、その中にある「品質のばらつき」や「伝え方の難しさ」に対する問題提起なのかもしれません。 これは、私なりの解釈です。
しかし、こうした議論は、実際の現場ではほんの一部で、最終的に選ぶのは「飲み手」です。
何を美味しいと感じるのか。何を受け入れるのか。解釈は一人ひとり違います。
だからこそ難しいのが、どこまでが「個性」で、どこからが「品質」なのか。
もちろん門戸は広くていいと思います。 でもその中で、「美味しい」と「楽しい」が、飲み手にきちんと保証されているか。 そこは、とても大切なことだと感じています。
ワインは、ただの飲み物にもなれば、深く心に残る体験にもなります。 先週の「桜とワイン」の話もそうでした。 同じ一本でも、飲み手や状況によって、その意味は変わります。
だからこそ、先入観だけでシャッターを下ろしてしまうのも、逆にすべてを無条件に受け入れてしまうのも、少し違うのかもしれません。
ひと口だけ味わってみる。 その上で、自分なりに判断する。 その積み重ねが、結局はワインの楽しさを増していくのだと思います。
今日は、自然派ワインについての少し真面目なお話でした。



